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~ 今日の風 ~

~ 今日の風 ~

エッセイ

(工事中)

育つ時     ユキ&ふう 向き合う             

我が家の犬のユキと猫のふうは私の寝室で一緒に眠る。寝室の入り口はドア式の襖で、去年亡くなった犬のJOYが開ける為に手をかけていた部分に穴が開き、猫のふうはそこを通り抜けて入ってくる。しかし、犬のユキは当然穴も通れないし、自分で襖を開けて入ることもできない。

ある真夜中、ユキとふうが寝室に来ようとしたが、襖が閉まっていたため、猫のふうしか入れず犬のユキは外側で鳴いていた。私は起き上がるとすっかり目が覚めてしまうのが嫌で、寝たまま猫のふうに「ユキちゃんが入れないから、開けてあげて」と言ってみた。すると、ふうはさっと襖を開けに行った。私は初め偶然にふうが外に出ようとしたのかと思ったが、そうではなかった。ふうはユキが入るのを見届けるとまた一緒に入って来たのだった。

翌日、そのことを保育の専門で猫を飼っていらっしゃるT先生にお話したら、先生は「育ついい時期に吸収したのでしょうね」とおっしゃった。また、それに比べてなかなか成長しない犬のユキのこともお話すると、「大事な時期を逃してしまっているからねぇ」ともおっしゃった。なるほどと思った。能力の差ではなかったのだ。
ユキは劣悪ペットショップで売れ残り、1年半もの間日のあたらない狭いケージの中に閉じ込められていた。そして、動物愛護団体に救出された時には痩せて歩くこともできない状態だった。ユキは大事な育つ時を逸してしまっていたのだった。一番愛されて育たなければならない時期に(犬の1歳半は人間の年齢にすると20歳を越える)辛い思いをしてきたのだった。

ユキには、ストレスにならないように細心の注意をしながら少しずつしつけてきた。しつけたというより励ましてきたという方がふさわしいかもしれない。根気よく気長に続けて1年が過ぎた今やっと何とかユキも自信を持って人や犬とも信頼関係を作れるようになった。

一方猫のふうはユキに遅れること50日、我が家には4ヶ月くらいの時に(人間でいうと6歳)来た。ふうのことはしつけるという意識はなかった。ただ一緒にいただけでいつの間にかちゃんと育っていた。 

果たして我家の3人の息子達はどうだったのだろうかと今頃になって考えている。      (2004.2記)


  *現在は入り口のドアをリフォームし、猫たち(後に家族になったみうちゃんも)はドアについたペットメイトドアから出入りしている。(ユキちゃんはいちいちヒーヒー鳴くのでその度開けてあげている)
これを出入りできない設定にしたことがあるが、そうするとふうちゃんは、人間用のノブに飛びついて開けてしまった。困ってそこに板を立てかけたら、それでも上手に隙間に手を伸ばして開けてしまった。 

ふうちゃんの手ふうちゃんの手

まだユキちゃんとふうちゃんだけの時は長身用(ユキちゃんが足元に寝ていたので)の布団とその下に長座布団をくっつけてしのげたのだけれど、みうちゃんが増えて、気がつくと私に残されたスペースは子供用か赤ちゃん用のお布団くらいしかなくなってしまった。それで最近ダブルサイズの布団を買った。これで随分楽になった。              


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自分で言えた今夜の三日月
―ある夜の三日月と三行の言葉―

恵介の口から、なかなか言葉が出ない。ボディランゲージを読みとろうと、隣
の横顔をじっと見つめる。眼や唇のわずかな動きからも心の動きを読み取りたい。
一瞬の翳りも見逃したくない。
話し合いの大半が先生の話で進んで行く。その中で恵介の返事に耳を澄ませ、
横顔を見つめ続ける。
「これまで、塾に通って良かったと感じたことはある?」
と 先生がやさしく尋ねる。少しの沈黙のあとで、
「いちおう、ある」
と恵介がぼそっと返事する。
「前にもやめたいと思ったことはある?」
しばらく沈黙して
「けっこうある」
「いちおう」と「けっこう」の二つの言葉に恵介の思いのすべてが込められて
いる。
先生は、理解を示して下さりながら、プロの立場で自信を持って話される。私
の考えも話そうとするが、大人の私でも言い出しにくい。しばらく時を伺ってか
ら、やっと声を出せた。自分の耳に入ってくる自分の声がいつもと違っている。
「やめることがマイナスで、続けることがプラスと思いがちですが」
とまで言ったところで、先生が
「いや、そんなことは ―― 」
と始められ、堂々ととうとうと続く。
―― あ~あ、それを言いたいのではなくて、言いたいことはその後だったのだ
けれど・・・・・そのために一般論を出しただけなのに・・・・・ ――
心の中で言い訳している。先生の言葉の区切りを待つが、その区切りがなかなか
つかめない。
―― こういうこと少なくないなぁ。私ってやっぱり話の持って行き方が下手な
んだ ――
と反省。危うく先生のペースにのせられて、そのまま言葉をしまいこみそうにな
る。が、やっと切れ目を見つけて言葉をつなぐ。
「入るときも入ることを選択したように、またここにきて選択しているのだと
思います。今回のことも今後プラスになるようにここからスタートしていけばい
いと思っています。―― (略) ―― この子の意思を尊重したいと思っていま
す。」

あの日は、日が暮れてからの帰宅だった。居間のドアを開けると、恵介がJOYと
遊んでいた。私が「塾は?」と尋ねたのと、こちらに向けた恵介の顔がさっと曇
ったのとどちらが早かっただろうか。恵介は押し殺したような声で
「やめたい」
と言った。
その瞬間、私は、
―― えっ、また ――
と思っていた。と同時に、
―― やっぱりそうか ――
とも思った。この頃、頭痛や腹痛を訴えることが多くなっていた。
三人の息子の中で、何をやっても一番早くやめてしまうのが恵介だった。三人
共通のお習字の先生は「集中すれば、恵介君が一番すごい。」と言って下さるが、
これも一番早くやめてしまった。
本人が作品を「もうこれでいい」と思っているときに、先生は「もっとここを
―― 」と指導して下さる。それが嫌だったらしい。人と競うつもりがなく、他
人の評価は気にしない。恵介は自分が納得できるかどうかが一番大切なのだ。励
ましは通じないし、負担になっていた。
私は、若い頃までは頑張ることが良いことだと思い、そう努力もしてきた。け
れど、この頃は、頑張ることに伴う不都合を感じることが多くなってきた。今は
とにかく頑張らない、頑張りすぎないことを自分の目標にしている。
それなのに、この時反射的に「やめる=挫折」と反応していた。自分の中に矛
盾を感じ、こういう自分はまだまだだなぁと思う。
自分の心は偽りたくなかったし、親の権威とか常識や建前でものを言いたくは
なかった。塾にとりあえず返事を待っていただくことにした三日間は、私の気持
ちを整理するように、お風呂に入っても、トイレに入っても、ずっとそのことを
考えていた。
そして、二人で話す時間を意識的に多くした。頑張ることのプラスとマイナス、
逆に頑張らないことのプラスとマイナスを体験から話したり、両方の祖父の生き
方を話してみたり・・・・・。内容については、恵介が気持ちに無理のないように受
けとめてくれたら、どう受けとめてくれてもよかった。自分のために話していた
のかもしれない。
そのように三日間を過ごして、結局「恵介の枠から外れた部分も、まるごと恵
介として、こわさないように将来につなげていきたい。」という気持ちになった。
あの子の嫌と感じる感性を尊重したいと思った。

二時間近い話の後、最後に本人の意志を確認される。やめるかやめないかの二
つに一つということではなく、今の段階でのはっきりしない半端な気持ちも含め
た気持ちだ。前にも増して、長い沈黙が続く。先生も私もそろそろ口をはさみた
くなったその時、
「やめたい」
恵介がしぼり出すように、しかし迷わず言い切る。
あいさつを終えて外に出る。冬の日はすっかり暮れて、三日月がきれいだ。ほ
っとしたような息子の横顔に、
「えらかったね。自分で自分の考えが言えて。」
と言う。

数日後の私の誕生日に、恵介がくれた誕生日のカードには、私が好みそうなか
わいいシールが貼ってあり、真ん中に丁寧にこう書いてあった。

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お母さんお誕生日おめでとうございます。     
今まで恵ちゃんのことを考えてくれてありがとう。       
 これからも長生きしてください。 恵介        
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(了)

* 子どもの気持ちを理解しようとカウンセリングマインドを中心とした臨床心
理学に出会ってから四年余り経ちました。子どもの心を理解するということは、
実は自分の心を理解することでした。過去に溯って、自分自身を知る作業が続い
ています。そういう中で、子どもを通して自分の中に起こった心の動きを書きと
めてみました。
1996年1月記


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屋久島の「時」

ずっと以前から行きたいと思っていて、何回か計画したことがあるのに行けな
いでいた屋久島だった。それが、今回計画もないところから、あれよあれよとス
ムーズに事が運び、友人達がその流れを作ってくれたり、後押しをしてくれたり
ということもあり、いつのまにか屋久島に行っていた。

そして、屋久島での一週間は、感激・感動・感謝の毎日で、私のこれまで
の人生の長い時間の中でも、ひときわ輝いていた時間だった。物心がついてこの
かた、一番私らしい私でいられた時間だったかもしれない。

それにしても、屋久島での時は、なんとゆったりと過ぎていったのだろう。
今ではまるで夢のように思える充実した"時"だった。屋久島の大きな時の流れ
方はとても心になじんだ。
トキ トキ
雨の山の瞬間をずっと眺めている時間

ホテルの大窓一面に見えるモッチョム岳とその裾野に広がる豊かな照葉樹林、
そこに湧いてくる雲、それがたちまち形を変えていくさまをずっと眺めていた。
消えていく雲・・・そしてまた、湧いてくる雲、降りしきる雨・・・・時折風が
吹き、止み、山は、雲にすっかり隠れたり、一部が見えたり・・姿を現しそうな
期待を持つが、また隠れてしまう・・・と、突然全容を現したり・・・・と思う
とたちまち消えてしまったり・・・・・・一瞬もとどまらない自然の営みの変化
を目の当たりにして、ただただ、圧倒されて、言葉を失っていた時間があった。
トキ トキ
思い出すのは、いつもそういう何でもない瞬間であり、時間だ。そういう
目的のない時がどれだけ豊かな時間だったかと感じるし、今もそういう時が
好きだ。

森を歩き始めた時、私は時計をはめていた。けれど、歩いているうちに、それ
がとても無意味に思えて、歩きながらはずした。降ってくる雨を見上げると、そ
の落ちてくる一滴一滴がはっきりと見えてきた。そして、その一滴が落ちる時間
が意外に長いことに気付いた。一粒の雨が地に落ちるまでの時間がひとつの単位
となって、あたかもこの森の時計の秒針となり、森の時を 刻んでいるように思
えた。

「森の時計」
  降る雨が 大地に落ちるまでの 時
  それが きっと 秒針
  苔についた一滴が 流れに落ちるまでの 時 /ヒトシズク
  それが きっと 分針
  森の時を刻むのは 水です

けれども、帰宅してからの時計は、屋久島でのそれとは違ってとても小刻みに
時を刻んでいる。
たとえば、時が布であるならば、めまぐるしい時は、端切を縫いあわせた
パッチワークの布のようで、その縫い目が肌にそわない。
私は、柔らかでどんな形にでもしなやかに沿う、風にたなびく絹のスカーフの
ような時を過ごしたいと思う。

雨の森を歩く
  傘はいらない
  いのちの雨に濡れて
  裸で歩く
  わたしは 森の一本の樹になる

六月に屋久島に行ったのは、正解だった。雨は、屋久島の豊かな自然の源であ
り、あらゆるいのちの源なのだとしみじみ実感できた。
雨の森を首から上だけ濡らして歩いた。森の樹々と一緒に濡れていることがと
ても心地よかった。全身を濡らしてみたい衝動に駆られた。屋久島の雨はいのち
を活性化してくれる。

今地球上の残り少ない、森に住む原住民の人たちが裸で暮しているのをTVで
見ることがある。雨の森を歩いて、あの人たちがとっても自然であることを実感
した。もっとも海に向って入る露天風呂で浜辺を眺めていても、そのまま海に出
たい気持ちになったから、森の中だからとは限らないのかもしれない。屋久島の
エネルギーがそういう気にさせるのだろうか。一人旅の開放感だったのだろうか。

「水」
  水は巡る
  海から空へ
  空から大地へ
  大地から海へ
  そうして いのちを育てている

屋久島の森は、樹も水もすべてが循環し、それによって、いのちが育ち、何
一つ無駄なものはなかった。寿命尽きて倒れた樹も、激しい風雨に倒された樹も、
そこにたまたま着生した新しいいのちの幼木も、森に落ちる枯れ葉の一枚も、空
から落ちてくる雨の一滴も、あの森の中では無駄なものはひとつもなかった。存
在する全てのものがあの森を支えていた。そして、循環していた。

遠い日に伐られた杉の切り株は、そのままいのちを終えることなく、次の世代
のいのちをその上に宿していた。そこで芽生えたいのちがすくすくと育って、そ
の切り株と新しい樹とが一体になって存在していた。

その豊かな湿り気のおかげで樹を棲み家とする苔類の上に落ちた種はそのいの
ちを育まれ、伸びていく。大地や湿った苔の上に根を下ろして次々と生えていく。

たまたま近くに落ちた種は育ちながら触れ合ってそして、二本の樹はとけあっ
て一つになって伸びていく。どこからどこまでが自分なのか、区切りなどなく、
すべてがひとつだ。また、大地の上の姿はたとえ別々であっても、その根は大地
の中でつながっている。

運良く残った千年を越す屋久杉には、木肌の苔を頼って十数種類ものさまざま
な樹が着生していた。その姿には、自他の区別を超えたいのちの確かさ、大きさ
があった。目に見える部分だけではなく、あの森全体が大地や大気で繋がってい
るということを感じた。私達は、自分とか他人とか、区切りを感じ過ぎるのかも
しれないと思った。

森はすべてが循環し、すべてがつながっていて、生きて伸びていく樹も、死ん
で朽ちていく樹も、存在としては差がない。そういうすべてがあって森は支えら
れているのだと思える。私自身も、そのような森の一本の樹としての存在である
だけで充分だと感じた。だって、すべてはつながっているのだから。

そして、その森の樹々のように奥深いところでつながっていた人が屋久島で
待っていてくれた。出会いというよりも再会と言った方がふさわしいような出会
いだった。今回の旅は、そのための屋久島行きだったとも言える。

魂はきっとわかっていて、この時期に大きな出会いを用意してくれて、屋久島
に導いてくれたのだろう。出会うべくして出会った何人もの方々がいた。
屋久島の豊かな自然、高いエネルギーに同調して移り住んだ方々は、その自然
と同じように豊かで確かな存在だった。

その方々が心からまるで待っていてくださったかのように私との出会いを喜ん
でくださり、当たり前のように永住を勧めてくださる。出会ってすぐにうちとけ
て何も隠すこともなく語り合った。

人生は実に巧妙におもしろく創られている。

先日、過去のメールを検索していて、偶然に見つかったメールにこんなことが
書かれていた。
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自分が魂のレベルからの認識にしたがって生きるとき、
どんな自分で在りたいかが、今生の心理を超えて解るようになるでしょう。
心を澄ませて、奥底の声を聞いてください。
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今回の屋久島への旅は、まさにこれに相当するような気がした。私は、屋久島
で自分がどう在りたいのかに気付いた。

                               2000/07/21記



★「屋久島の時」はGAJINにも載せていただきました。

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